

倫は新しい一人暮らしの朝を迎えていた。
ワンルームのアパートの部屋はまだ段ボール箱でごちゃごちゃしているが、先端技術により、壁全体が大型ディスプレイとして機能し、自然の中で目覚めているかのような体験を提供している。
外の東京のごちゃごちゃした街並みとは裏腹に、壁には朝露で濡れた草原と、遠くに佇む山々が広がっていた。
このホログラム技術により、倫は窓がない部屋にいながらにして、外の世界と隔たりなく、理想的な朝を体験する。
彼女はスマートミラーの前に立ち、その日の服を選ぶ。ミラーは彼女の表情を読み取り、健康状態を分析して、
「今日は大学の初日だし、これが似合うと思うよ」と声で教えてくれた。
選ばれた服は、部屋の隅に設置された3Dプリンターからほどなくして現れる。
倫がそれを手に取ると、プリンターは彼女のパジャマを回収し、リサイクルを始める。
実家ではまだ母が毎日洗濯をしているが、ここではそんな必要はない。
洗面所から戻ると、部屋の壁はすでにおしゃれなカフェ風に変わっていた。
朝食を取るためにテーブルに着くと、壁に映し出されたインテリアが変わる。倫はコーヒーを一口飲み、新しい生活への期待と家族と離れている寂しさが交差する。
この新しい環境での孤独を感じつつも、ホログラムが生み出す心地よい雰囲気に少し癒され、
「さあ、頑張るか!」と自分に言い聞かせ、部屋を出た。
通学路は人々で賑わっており、彼女はその流れに身を任せながら、大学への期待と不安で心がざわつくのを感じていた。

通学路に出ると、倫はごちゃごちゃした街並みとホログラムの広告で溢れかえる新しい世界に圧倒された。
2050年の東京は、高層ビルと古い町並みが入り混じる複雑な風景を持ち、どこを見てもデジタルとリアルの境界が曖昧だった。
街中のあちこちで立体的なホログラム広告が飛び出し、通行人の注意を引いている。
若者たちはこれを当たり前のように受け入れているが、田舎から出てきたばかりの倫にとっては未だ新鮮で、少し煩わしいものだった。
彼女が使っているスマート・コンタクトレンズはリアルタイムでナビゲーションを提供し、大学までの最適なルートを指示してくれる。
歩いていると、レンズの通知があったようだが、AIのゼンは倫はまだ慣れない街に集中した方が良いと判断し、表示はしなかった。
この世界ではAIがユーザーに快適になるように最善を尽くしてくれている。少し前まであったAIが地球を滅ぼすか、などの論争がまるで嘘のようだ。
人間は漢字の名前、AIはカタカナの名前で呼ばれている。それってどうなんだろうと倫はふと思ったが、海外では名前の区別がされてなく混乱を生んでいる。
「あれ倫ちゃん?偶然!」
突然、一人の学生が声をかけてきた。倫は思い出そうとするけれど、うまく思い出せない。
倫が言葉に詰まるのを感じ取ったイヤフォン型の AIのゼンがそっと耳打ちする。
「これは杏さんです。2年前に高校生討論大会で"時間の矢"について論争しました」
しかも聞いたら偶然同じ学部。倫は知り合いに会うことができ少しホッとしながら、一緒に教室へと向かうのだった。

授業が始まると、壇上に現れたのは人間味を感じさせるデザインのAI教授、インフィニティだった。
その動きは自然で、教授は静かに話し始めた。
「皆さん、時間学部へようこそ。1年間でこれを理解してもらうことが目標です」

倫は困惑して、「え、うそ…」とつぶやいた。専門用語が次々と投げかけられる中、彼女は徐々についていけなくなった。
そっとイヤフォン型AIのゼンに耳打ちする。
「ゼン、これ説明できる?」
ゼンは生まれてからずっと倫と共に過ごしているので、どう説明すれば倫に一番伝わるかを熟知している。
授業内容は一番上のレベルに合わせて行われ、それ以外はそれぞれのパートナーAIと一緒に理解を深めるのが一般的だ。
インフィニティ教授が続ける。「では次に、"エントロピー"という概念について深く掘り下げていきましょう。
エントロピーとは、簡単に言うと、物質の乱雑さや不確かさを数値で表したものです。
宇宙の法則によれば、エントロピーは時間と共に増加する一方です。この不等式で表されます: Δ𝑆 ≥ 0 」
「ゼン、エントロピーって具体的にどういう意味?」ゼンはすぐに答えた。
「コップは割れてガラスになりますが、ガラスはコップに戻りません」倫は無意識に、
「なるほどね!」
と声を上げてしまい、周囲から一斉に注目されてしまった。

授業後、倫と杏はキャンパスの広々とした庭に出て、一息ついた。
二人は並んでベンチに腰掛け、静かにため息をついた。
「ねぇ、杏ちゃん。私たち、本当にこの学部でいいのかな?」倫が不安げに言った。杏は彼女を励ますように笑って答えた。
「うん、最初は誰でもそう思うよ。でも、時計がなくなって、"経験的時間"が始まってから、世界はもっと混沌としてる。私たちがここで学ぶことで、少しは役立てるかもしれないよ」
その言葉に倫は心からの安堵を感じ、「そうかもね」と答えた。
杏の堂々とした態度に影響を受け、倫は自分が時間学部を選んだ理由を再確認する。
彼女は子どもの頃から時間の平等性に疑問を抱いており、それが彼女をここへと導いたのだった。
二人の周りでは、様々な年代の学生たちが自由に交流しているが、倫は
「同じ年齢でも、こんなにも違う成熟度があるのはなぜだろう?」と考え込んだ。
そんな倫に、AIのゼンが声をかけた。「少し休んで気分転換するのも良いかもしれませんね」
倫は「ありがとう、ゼン」と感謝の言葉を返した。
ゼンは温かく答えた。
「私たちはあくまでサポートするためにここにいます。最終的な選択はいつでもあなたの手にあります。
このテクノロジーも、人間の幸せをサポートするために進化していくでしょう」
倫はその言葉に安心し、新しい世界での自分の役割を見つけ、多くを学び、成長することを心に誓った。
--- 今日の用語 ---
時間の矢
時間の流れが一方向に進む現象を指します。私たちの日常経験では、時間は過去から未来へと進むことが普通ですが、物理法則の多くは時間の向きに依存しません。
それにもかかわらず、なぜ時間が一定の方向に進むのかは大きな謎の一つです。
エントロピー
物理学において、エントロピーは系の無秩序や乱雑さを数値化したもので、熱力学の第二法則により、孤立した系ではエントロピーは常に増加するとされます。
これは、宇宙の時間の流れ(時間の矢)と密接に関連していて、時間が進むにつれて、物質やエネルギーはより分散し、混沌とした状態になると考えられています。
経験的時間
科学的な測定に依存しない個人の感覚に基づいた時間の感じ方を指します。個々の活動や感情の状態、周囲の環境によって「時間の進み方」が異なって感じられることがあります。
たとえば、楽しい時は時間が飛ぶように過ぎ、退屈な時は時間がとても遅く感じられることがこれに該当します。