倫のエンタングルメント|第二章 時間の結び目

倫のエンタングルメント - 第2章「時間の結び目」

秋の風がキャンパスを通り抜ける朝、倫は新しい学期の始まりとともに、未知の世界への一歩を踏み出していた。

大学の時間学部は彼女にとって、夢と現実が交錯する場所だった。

倫と杏は教室に足を踏み入れると、未来的なデザインの講堂に圧倒された。

壁一面のホログラムスクリーンは、複雑な数学式と天体の動きを示すアニメーションでいっぱいだ。

周りはすでに席を埋めた学生たちのざわめきで、もう入学して半年なのに相変わらずの緊張感。

彼らの前方の壇上に立つインフィニティ教授は、どことなく人間味を感じさせるAIだった。

その動作一つ一つが自然で、流れるようなものだった。

「皆さん、無限の世界へようこそ。今日は、宇宙の奥深くに隠された時間の秘密を一緒に解き明かしていきます」

教授の言葉に、倫は深く息を吸い込む。

隣の杏はすでにノートに式を書き始めており、その違いに倫は自分の不安を強く感じた。

インフィニティ教授が次に指し示したのは、"シュワルツシルト計量"が映し出されるホログラムだった。

「今日は、この方程式から始めましょう」

教室内が静まり返る中、教授はこの式の意味するところを解説していく。

しかし、専門用語が飛び交う中で、倫はたまらずイヤフォン型AIのゼンに助けを求めた。

ゼン「宇宙は138億歳と言われていますが、その時間の進み方は、見る人の場所や速度によって必ずしも138億年ではないということです」

ゼン「もし初期の宇宙のブラックホールに近づいて、倫さんが仮に生きていたとしたら100億年を1秒で見ることもありえます」

「え、まじ?」倫はその言葉を呟くと、ただ呆然とした。

1秒が100億年に相当する可能性を聞いて、思考が停止してしまった。

その間にも、杏は活発に手を挙げて質問し、教授の解説に熱心に耳を傾けていた。

授業が終わり、二人が教室を出たとき、倫は重たい足取りで外へと歩き出した。

キャンパスの風が頬を撫でる中、彼女はため息をついた。

「時間ってなに…」

後日、倫と杏は図書館の静かなコーナーで準備を始めた。

「ねぇ倫、インフィニティ教授の課題のグループワークどうする?」

杏は自信満々に参考書から"タイム・ダイレーション"を説明し始める。

「この前の式はさ、( 𝑑𝜏 ) は重力の影響を受ける位置での時間間隔、( 𝑑𝑡 ) は遠方の時間間隔、( 𝐺 ) は万有引力定数、( 𝑀 ) は中心の質量、( 𝑟 ) は中心からの距離、( 𝑐 ) は光速ね」

倫には難解すぎて説明すら理解できない。杏は続ける、

「この式から、( 𝑟 ) がシュワルツシルト半径( 2𝐺𝑀/𝑐² ) に近づくにつれて、( 𝑑𝜏 ) は 0 に近づくことがわかるの」

「これは、ブラックホールの事象の地平線付近での時間が、無限遠に位置する観測者から見て極端に遅く進むことを意味するんだよ!」

倫は全くついていけていない自分に焦りを感じていた。なんで同じ年なのに、ここまで違うんだろう。

これも脳内の時間のようなものが関係してるのかな?

このグループワークがきっかけで2人の仲はさらに深まり、杏の半ば強引な提案で大学で最も難しいと言われるインフィニティ教授の研究ゼミナールに入ることになってしまった。

コンコン。

「失礼します」緊張しつつ冷たいドアノブに手を触れる。

いまは自動ドアが主流だから、ドアノブに触れるのは久しぶりだった。

インフィニティ教授の研究室に足を踏み入れた瞬間、温かさと、どこか奇妙な空気に包まれた。

壁一面には天体の動きを解析する複雑な方程式が映し出され、部屋の隅には古代の星座図が飾られている。

倫と杏は教授に招かれる形でこの研究室に初めて足を踏み入れた。二人はその異世界のような光景に目を奪われる。

「こちら、私のコレクションの"オニギリ"とその他の食べ物の剥製です」

インフィニティ教授が指差すのは、様々な文化の伝統的な食べ物の精巧な剥製の展示だ。

それぞれが異なる時代や地域を象徴しており、まるで食文化の時間旅行のよう。

中でも目立つのは、おにぎりの剥製。

「あ… おにぎ… えっと… なぜ食べ物の剥製なんですか?」倫が尋ねる。

教授は微笑みながら答えた。

「私たちAIは食べることができませんが、人間の文化や歴史には非常に興味があるんです。

特に、時間を超えた食文化の変遷は、時空を超える私たちの研究にとってインスピレーションを与えてくれるのですよ」

杏は感心しながらも、何かを思いついたように教授に切り出す。

「教授、その時空を超えると言えば、私たち、タイム・ハブについてもっと学びたいんですが、実際に見せていただくことは可能ですか?」

教授の目が輝いた。

「もちろんですよ。実はこちらに。」と言って、教授は研究室の奥にある特別な装置のカバーを取り除いた。

「このタイム・ハブを使えば、異なる時間感覚を体験できます。そうだ。せっかくなので体験していってはどうですか?」

倫はこの新しいお誘いにわくわくしながらも、どこか不安を感じていた。

しかし、杏の隣で勇気を出し、未知の体験への一歩を踏み出す準備を整えた。

インフィニティ教授の研究室の奥、そこにはタイム・ハブと呼ばれる特別な装置が設置されていた。

カバーを外し、教授は微笑んだ。

「このタイム・ハブを使えば、異なる時間感覚を体験することができます。実際に時間の流れを操作し、感じることができるのです」

杏は興奮を隠せない様子で、機械に近づいた。

一方、倫は少し躊躇しながらも、新しい体験への期待を胸に装置の前に立った。

教授は機械の操作パネルに手を伸ばし、いくつかのボタンを調整した後、二人に説明を始める。

「タイム・ハブは、ユーザーが異なる時間感覚を安全に体験できるように設計されています。例えば、このハブを使って数分間で一年の時間を体験することも、逆に一瞬で数年を過ごすことも可能です」

装置が静かに動き出すと、倫と杏は目の前の景色が変わり始めるのを感じた。

時間が加速し、周囲の環境が一瞬にして変化していく。

花が咲き、枯れ、再び新しい芽を出すサイクルが目の前で繰り返される。

「すごい…!」倫は自分の目を疑いながらも、時間の流れの相対性を肌で感じていた。

杏もまた、その体験に心を躍らせている。教授は彼女たちの反応を見守りながら続ける。

「時間は絶対的なものではなく、私たちの認識や状況によって変わります。このタイム・ハブを通じて、その事実を体感してもらいたいのです」

体験が終わると、時間はまた通常に戻った。倫は静かに息を吸い込み、胸に残る余韻を確かめた。

世界は同じはずなのに、どこか違って見える。時間についての自分の理解が、少しだけほどけたような気がした。

そのとき、横で装置を見つめていた杏がぽつりと言った。

「ねぇ倫。時間ってさ、みんな同じ速さで進んでるように見えるけど… 実は人によって全然違うんだよね」

倫は目を瞬かせる。杏は優しく微笑んで続けた。

「だから、焦らなくていいんだよ。あなたの時間は、あなたのリズムで進んでるんだから」

倫はゆっくりとうなずいた。胸の奥で、何かが少し軽くなった気がした。

--- 今日の用語 ---

シュワルツシルト計量

一般相対性理論の解の一つで、球対称な非回転する質点(例えばブラックホール)の周囲の時空を記述する方程式です。

この計量は、カール・シュワルツシルトがアルベルト・アインシュタインの一般相対性理論が発表された直後の1916年に導出しました。特に、シュワルツシルト計量はブラックホールの表面とされる「事象の地平線」を数学的に表現するために使用されます。

事象の地平線は、そこから逃れるためには光速以上の速度が必要な点として定義される境界です。

タイム・ダイレーション

相対性理論において重要な概念の一つで、異なる速度で動く観測者や強い重力場の中にいる観測者にとって、時間の進み方が異なる現象を指します。具体的には、速く動く物体の時計は、静止している観測者から見ると遅く進むという現象です。

また、重力の強い場所では時間が遅くなるため、例えば地球のような重力が比較的強い天体の表面に近い場所では、宇宙空間にいる観測者に比べて時間の進みが遅くなります。

この現象はGPS衛星などの精密なタイミングが求められる技術において、非常に重要な考慮事項となっています。

オニギリ

日本の伝統的な食べ物で、ご飯を手で握って形を作り、しばしば海苔で包みます。物語では、時間を超えた文化の象徴として、インフィニティ教授がコレクションしています。