

夏の終わりが近づく頃、キャンパスは新しい学期の準備で賑わっていた。
杏の腕に装着されたアービター・ウォッチが、微かに振動した。大学の新しい実験施設で爆発事故が起こったという。
心臓がドキリとする中、彼女はただちに倫に連絡を試みる。
しかし、通話もメッセージも一切反応がない。
不安が募りストレス値が急上昇したデータを見て、彼女のパーソナライズされたAI、イオンが声をかける。
「杏さん、落ち着いてください。すぐにゼンとコンタクトします」
イオンがゼンとの通信を試みるが、そこからも反応はない。
これが何を意味するのか杏には明確だった。
その事実に直面した杏は、立ち尽くすしかなかった。
「倫…」杏の声は震えていた。
イオンは冷静に応える。
「詳細はまだ把握できていませんが、状況を確認しています。
大規模な電力消費が報告されています。
これが事故と関連している可能性があります」
杏は深呼吸を試み、心を落ち着かせる。
彼女は決断を下し、倫が最後にいたという実験施設へ向かうことにした。何か手がかりを見つけるかもしれない。
イオンは杏の安全を第一に考慮しながら、彼女を実験施設まで導いた。
そして、彼女が到着したときには、その場所はすでに多くの救急隊員と安全担当者で溢れていた。

杏が実験施設の混乱の中を慌ただしく進むと、救急隊員によって一旦止められる。
彼女の不安は増すばかりだった。
爆発の影響で施設内部は一部が崩壊しており、安全が確保されていない状態だった。
「倫さんのことわかりますか?」と杏が尋ねると、隊員は首を横に振った。
「まだ全員の安全を確認中です。こちらは危険ですから、後ろに下がってください」
杏はその場から動けずにいたが、イオンが彼女を優しく支え、エターナ教授の研究室へ向かうよう促す。
「杏さん、エターナ教授なら何か知っているかもしれません」
エターナ教授の研究室に到着すると、杏はすぐに教授に事故の情報を求めた。
エターナ教授は深刻な表情で応える。
「私も詳細は把握していませんが、事故によって発生したエネルギーの変動が記録されています。
異常なほどのデータ通信がありました」
杏は教授の言葉に一瞬で察し、顔が青ざめる。
「それは…倫のことですか?」
エターナ教授は頷き、さらに説明を加える。
「どうやら倫さんの脳活動のデータが大量にネクサス・システムにアップロードされたようです。
異常事態の対応としてAIが行動した可能性がありますが、それが何を意味するのかはまだ解析中です」
杏は情報を整理しながら、何か行動を起こさなければと強く感じていた。
「私たちにできることはありますか?」
エターナ教授は考え込む。
「今は解析を待つしかありませんが、何か手段を見つけ出せるかもしれません。
私のチームと協力して、倫さんの記憶を応急処置として保全しようと試みてみましょう」
エターナ教授の研究室は、倫を救うための活動の中心地となった。
しかし杏は僅かな希望に縋る(すがる)ことしか、この時点ではできなかった。

エターナ教授の研究室では、倫のデータ解析に向けた緊急ミーティングが開かれていた。
杏は自分でこのミーティングへの参加を強く志望して許可されていた。
「これが、倫さんのデータアップロードのログです」
エターナ教授が指摘すると、大画面には膨大なデータの流れが映し出されていた。
その中には、倫の思考パターンや記憶、感情のフラグメントが含まれている可能性があった。
杏はデータの流れを見つめながら、倫がどれほど多くの情報を持っていたかに改めて気づく。
一つ一つのデータポイントが倫の生活の一部であり、彼女の精神の一片を形成していた。
無限と謳われていたネクサス・システムのハードディスクは倫の"感情のデータ"でもうパンク寸前だった。
「ねぇ、イオン。感情のデータ量ってこんなにも膨大なの?」杏は呟いた。
イオン「今まで一度も全ての感情のアップロードに成功した例はありません。
これまでも何度か試みたようですが、途中で全員死んでしまったようです」
杏は、何とか彼女を取り戻せないかという一縷の希望に心を寄せていた。
イオンがその技術的な側面を支え、データの解析と整理を手助けしている。
「倫のデータには彼女の愛したもの、恐れ、願望がすべて含まれています。
これらを正しく理解し、尊重することが、彼女を救う鍵になるでしょう」
エターナ教授がそう述べると、杏は深くうなずいた。
解析作業は夜を徹して続けられ、杏とエターナ教授はデータの海に没頭する。
その過程で、倫の存在がデジタルの形でどれほど生き生きとしていたかが明らかになり、杏は倫がいかに特別な人物であったかを再認識する。
夜が更けるにつれ、杏は疲れとともにある種の直感を覚える。
倫のデータを通じて、彼女はまだそこにいるという確信が芽生えてつつあった。

夜明け前の静けさの中、杏とエターナ教授はついに倫のデータから彼女の意識の核となる部分を特定した。
「おそらく、これが倫さんの意識のエッセンスだと思います。
しかし、残念ながら今の2050年の技術では、これを彼女をデジタルエンティティとして復活させることはできません」
エターナ教授は優しく、しかし冷静に分析結果を伝えた。
杏はその言葉を聞いて肩を落とし、力が抜けた。
精神的にも肉体的にも限界が近い彼女を支えるように、イオンが話を続けた。
「意識は特定できたものの、それより大切な感情のデータの復元が問題ですね」
エターナは頷いて応じた「その通りです、イオン」
イオン「この場合、"セオリー・オブ・エブリシング"、すなわち万物の理論が必要ですね」
杏は、イオンが普段とはどこか違う語り口になっていることに気づいた。
「イオン、説明して?」
「もちろんです、杏さん」イオンは静かに応じた。
「まず、私の名前『イオン』は、ラテン語で“無限に続く時間”を意味します。
それが示しているのは……“そういうこと”なのです」
「万物の理論とは、本来、すべての自然現象を一つの枠組みで説明しようとする試みです。
アインシュタインも生涯をかけてそれを追い求めましたが、完成を見ることはありませんでした」
「彼が辿り着いた地点が、どこまで真理に近づいていたのか。
それを正確に測る術は、今も存在していません」
「それでも人は、その理論を必要とし続けています」
「それは――
理論というよりも、人がまだ諦めきれない問いなのかもしれません」
イオンはその透き通るような髪をなびかせ優美に言った。
--- 今日の用語 ---
感情のデータ
本作における「感情のデータ」とは、喜び・恐れ・愛情・後悔といった
人間の主観的な感情体験を、脳活動や行動履歴として記録・解析した情報の集合を指す。
思考や記憶と異なり、
感情は状況・関係性・時間によって絶えず変化し、
完全な再現や保存が極めて困難とされている。
そのため作中では、感情のデータこそが
「意識の核」に最も近く、
同時に最も人間的で、最も失われやすい存在として描かれている。
倫のデータ解析が困難を極める理由も、
この感情のデータが膨大かつ不完全であることに起因している。
セオリー・オブ・エブリシング(万物の理論)
物理学において「セオリー・オブ・エブリシング(Theory of Everything)」とは、重力・電磁力・強い相互作用・弱い相互作用といった
自然界に存在するすべての基本的な力と現象を、一つの統一された理論で説明しようとする試みを指す。
20世紀に一般相対性理論を完成させたアルベルト・アインシュタインも、
晩年はこの万物の理論の構築に取り組んでいたが、生涯のうちに完成させることはできなかった。
2050年現在においても、
量子力学と重力理論を完全に統合した理論は確立されておらず、万物の理論は未完成の問いとして存在し続けている。
本作において万物の理論は、単なる科学的な最終解答ではなく、
人間が「理解したい」「失いたくない」「意味を与えたい」と願う
根源的な衝動そのものの象徴として描かれている。